下都賀郡に位置する祖母の家は栃木県の南部にある田舎なので、
高い建造物が一つもなく、その分都心に比べて日陰が少ないため、
すごく暑く感じたのだろう。実際、正午からは夏の気温にまで上昇していた。
25度ほどの予想気温だったはずなのだが…。
送迎バスでの移動中、10分に一軒しかコンビニを見なかった。
稲穂の優しい揺れが車窓を過ぎ続けてゆく、ド田舎だ。
都会の生活に染まってしまった今の自分には、
母の入院のために預けられた頃に祖母からもらった100円玉を握りしめて田んぼの間の畦道を駆けて、
近所で唯一のお店であった電気屋にお菓子を買いに毎日通った幼少時の数ヶ月を懐かしむのが精一杯だ。
やっぱり今でも100円玉がお金の中で一番好きだ。
貯金箱の中に入れるような100円玉は好きじゃない。
ポケットに入れたり、手に握りしめた100円玉が好きだ。あの畦道を思い出す。
あの畦道で100円玉を無くして、泣きじゃくりながらウチへ戻って祖母を連れ出し、
日が暮れるまで一緒に探してもらったあの日の祖母はもうすでに62歳。
あの頃から祖母は「おばあちゃん」だった。
あれから32年。
94歳。オレはそんなに長く生きられないだろう。
「あと59年は無理そうだよ、おばあちゃん。せいぜい、その半分いけばいいくらいだと思うから。」
告別式で献花した時の祖母の顔は誰がどう見ても微笑んでおり、その肌は明らかに94歳のものではない、とても美しいものだった。右手につまんだまま何処に置こうか一瞬思案したのち、頭の右上の辺りに白い菊の花を一輪、献花した。髪飾りみたいで、可愛かった。こんなに綺麗な肌して微笑んでる祖母の死に顔を前にしたら、オレがそこに置くために場所が空いていたとしか思えなかった。世界一綺麗な94歳だった。
8人兄弟の4女に生まれた母を生んだ祖母のために駆けつけた親類は、祖母の故郷である仙台から来たこれまで自分とは面識のない祖母の親類の姿も大勢合わせ、大人数による葬儀・告別式となった。
すぐ火葬となったので、葬儀場から火葬場へ送迎バスで10分ほど移動し、更に祖母宅の近所の檀家へ納骨するためにまた移動、すぐにまた最初の葬儀場へ戻って飯というあまりに慌ただしい流れ。高齢者が多い我が母方の親族には、この"シルバー"ウィークは身に堪えたに違いない。かくいう若い自分でさえ、帰路ではクタクタだった。ネクタイを緩めずにはいられなかった。
日本を出国する人の玄関先が成田空港なら、我が家にとって田舎へ行く時の玄関先は浅草。浅草というのは、自分にとってそういう町。子どもの頃から「玄関先に戻ってきた時」は決まって新仲見世のレストランに入る。今日も立ち寄り、暑さと疲れを考慮してチョコレートかき氷を食べて、帰りの銀座線に乗った。
東京の日中は27度だったが、ビルの陰は少しひんやりしていた。