
ある盛夏の暮れなずむ頃、メゾン・ミクニへ立ち寄った。
ミクニ、という固有名詞を耳にする度に真っ先に思い出すのはエーグルドゥースの寺井シェフだ。ミュゼ・ドゥ・ショコラ・テオブロマの向かいにあるミクニのショーケースには、エーグルドゥースにあるカスレットやフレジエ、ミルフィーユ(ミルフゥーイユ)など、見覚えのあるフォルムをしたガトーが何点か並んでいる。
フレジエはミクニのものの方が随分と小さく見えるし、カスレットはこちらの方が赤味の強い焼き目が濃い。…いいや、むしろ---まるでエーグルドゥースがエーグルドゥースとして生まれた頃のカスレットのようだ。
カスレットとまるで変わらぬが全く異なる旧き新しき名を冠したそのケーキをオーダーする隣のカップルが微笑ましい。…そういえば、まだ今月はエーグルドゥースに行ってなかった。いつもなら月の初めの週末の、丁度こんな色した空の時分に出かけてるはずなのに。
もの足りなさと呼べる何かから来るフラストレーションを片隅に置きながらこの夏を過ごしてきたような気がする。お盆もおしまいだ。もうそろそろ、そいつが何なのか、判ってもいい頃なんじゃないか。ボヤボヤしてる間に、夏はもう終わってしまうのだから。
家路に着くや、そんな由無し事が頭の中をグルグル駆け回っていた頃、おもむろに紐を解き、包みを開けた。

○キャラメル - caramel -(¥1,260)
目の前には横10.5cm、縦6.5cm、高さ5cmのケーク、「キャラメル」があった。表面はとても艶やかで滑らかであり、かつ強固である。だが、エーグルドゥースの方がもう少し硬い。それはそうかも知れぬ。キャラメルに焼ごてを当てる回数が3回もあれば、あれだけ硬いわけである。しかしミクニのケークも負けてはいなかった。

「さあ、食べよう」
滑らかにカラメリゼされた表面に対して、しっかりと力を込めてナイフを押し入れる。

「ピシッ」
とヒビが入るその瞬間が堪らないのは、それが静寂(しじま)を掻き乱す違和感のようであり、それがかけがえのない何かを失った喪失感のようであるから。この錯覚が引き起こす心の波であるから。この波を乗りこなそうと、この一瞬に人は人であろうとする。
人の背負いし深き罪。破壊しなければ届かない欲望のジレンマ。美しさのもつ脆弱さとは、次の瞬間にそのすべてを崩壊させてしまうかもしれない恐怖との表裏、同居から来るのではないだろうか。
このナイフとはケーキにとって一体何なのだろう。あるいはドイツ人ならば自らの哲学をもってナイフの存在性を認める事ができるやもしれない、かつて彼らがその勤勉さゆえにバウムクーヘンを解体したように。だが、ナイフはケーキを刻み、あまつさえ傷付けるのだ。美とは何か。それをせずに味わう事は難しい。人である以上、決して避けて通る事など出来ぬ。美しいものは美しいままそこに在り続けるのかもしれない。美しいものがやがて消えてなくなってしまうのだとすれば、それは美しいものが美しいゆえに、人はそれを擦り抜けさせてしまうからだ。叶うならば、永遠(とわ)にこの手の中に掴んでいたい。そんな時、人はこのナイフで美しさというものを刻みつけるのだ。自分の付けた痕を、証しを刻みたいのだ。だが、次の瞬間、美しいものは我々から擦り抜けてゆく。すべからく愛がそうであるように、美しいものもまた手から擦り抜けてゆく。そうさせているのは人そのものなのだ。
ナイフとは美しさを解体する哲学なのか。哲学は美しさを傷つけるのだろうか。
しかし、ケーキは裏切る事がない(そう信じている)。何度ナイフを入れようと、美しさがいくら切り刻まれようと、それは再び舌の上で昇華する事を人は知っているから。求めたのは言葉ではない。
苦痛と快楽が、絶望と歓喜が、凝固と融解が、生と死が。フォークを入れた刹那、すべてがここに…。胸に去来し、溢れゆく感情。豊饒の海に漂泊する一艘の船が水平線の彼方へ遠ざかる。人は午後に曳航するこの一艘の船であり、その船を俯瞰する岬の灯台である。あるいは大地に降り落つ雨粒たちであり、岩を呑み込む濁流である。もしかしたら広大な海へと流れてゆく川そのものなのかも知れない。この流れを塞き止めるダムなどここにはありはしない。満ちてゆく時の中で求めたのは言葉(論理)ではない。
「美味しい…。」

横に置いたテキーラ・スラーマ&レモンをグイっと飲みながら味わうケーク・キャラメルは、いつまでも今宵の自分を酔わせてくれる。いざなってくれる。生地に染む褐色のキャラメルの香りも、しっとりした苦味も、覚えアリ。ここにルーツがあった。Back to Basic(アギレラか)。キャラメルがこんなにも苦味を含んで美味しいものだと教えてくれたのはエーグルドゥースだった。時空を超えて、またも。ケーキを教わるのは一体これで何度目だろう。いや、何度でも教わろう。
…行かなくちゃ。求めているものが何なのか、思い出したよ。