聖蹟桜ヶ丘は、自分の中の「郊外」である。東京西部へ走る京王線そのものが「郊外」といってもいいかもしれない。とても好きな町で、この10年ほど、何年かに一度の割合で訪れている。子どもの頃は何度来たか覚えていないほど。自分が生まれる前に、両親がこの町のカフェで働いていた。今はもうない。
多摩川は好きな川だ。利根川は、あんまり好きじゃない。水道水でお世話になってるけど、そのままじゃ飲めない。3分もすると臭くなるから。だからネコのための水は、夜と朝最低2回、必ず新しい水に代えてやってる。
高校に入学した頃、真島昌利『夏のぬけがら』の収録曲に度々出てくる多摩川を思い浮かべながら、友人と尽きる事なく喋り合った。


何か考え事があるからではない。何か悩み事があるからではない。
何も考えなくていいからココに来るんじゃないかと、ふと思う。大事なことを考えるのに、実は場所はそれほど大きな意味はないんじゃないかと思う。別にわざわざココに来なくったって考え事はよくする。じゃあ、何も考えてないのかと自問すると、それはそれでまたちょっと疑わしい。考えるかもしれない、としか言い様がなかった。
土手に腰を下ろして、向こうから走ってくる京王線を眺めながら目を細める。橋を渡る音を聴く。後ろを通り過ぎる自転車の回る音を聴く。それだけだったりする。こういう場所が好きで、来たいから来ただけ。そんな気がする。そういう意味では、自分にとってココも海と同じ気がする。ココから海までは35kmも離れているらしいのに。
